1888年作曲 クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy)1862年8月22日生−1918年3月25日没。このページはドビュッシーのアラベスクに関するホームページです。

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ドビュッシーについて

概略

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作曲家、音楽評論家。
クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862年8月22日 - 1918年3月25日)

ドビュッシーは1862年、フランスイヴリーヌ県のサン・ジェルマン=アン=レーに生まれました。
ポール・ヴェルレーヌの義母でショパンの弟子だったモーテ・ド・フルールヴィル夫人その他に基礎的な音楽の手ほどきを受け、彼が10歳の時1872年パリの音楽院に入学、1884年に至るまで音楽院に在籍し、様々な音楽家の指導を受け学びました。
1884年(22歳)にカンタータ「放蕩息子」でローマ大賞を受賞し、翌1885年(23歳)からイタリアのローマへと留学したものの、イタリアの雰囲気には馴染むことが出来ませんでした。ローマ大賞受賞者に与えられる期間を繰り上げて二年後の1886年(25歳)にはパリに戻りました。
1889年(27歳)、パリで開かれた万国博覧会で東洋音楽を耳にし、衝撃を受けました。東洋の音楽に接したことが、その後の彼の音楽に大きな影響を与えたと言われています。
1891年(29歳)「二つのアラベスク」、 1894年(32歳)「牧神の午後への前奏曲」を完成させ、この頃から伝統を打ち破る彼独自の新しいスタイルの音楽を確立していきます。
。1899年(37歳)リリーと結婚するものの、6年後の1905年(43歳)離婚します。同年、銀行家夫人エマ・バルダックと再婚し、クロード=エマ(シューシュー)誕生しました。
1915年(53歳)癌の手術を受け、二年後の1918年3月25日(55歳)直腸癌のため死去しました。


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年表

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1871年 ショパンの弟子であったフルールヴィユ夫人に入門。

1872年 パリ音楽院入学。

1884年 カンタータ「放蕩息子」でローマ大賞を受賞。

1885年 イタリア留学。リスト、ヴェルディ等と交友する。

1887年 イタリア留学期間を繰り上げ、パリに戻る。

1888年 バイロイト音楽祭に参加し、ワーグナーの影響を受ける。

1889年 パリ万国博覧会。東洋音楽を耳にし、衝撃を受ける。

1891年 「二つのアラベスク」作曲。

1894年 「牧神の午後への前奏曲」作曲。

1899年 リリー・テクシエと結婚。

1905年 リリーと離婚し歌手エマ・バルダックと再婚。クロード=エマ誕生。

1910年 癌発症。

1915年 癌の手術。

1918年 直腸癌のため死去。


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その他

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ドビュッシーは前頭部に骨腫があり、彼の額は骨が隆起してこぶが2つ並んだような形になっていました。これは象牙様良性骨腫(Ivory osteomata)と呼ばれる症状で、彼は生涯に渡って頭の形のコンプレックスに悩まされていたようです。
彼は20才の時に友人の画家ジョルジュ・ロシュグロースへ依頼して、前頭部の形を隠すような髪型へ整髪するようになり、その後生涯に渡ってその髪型で過ごしています。


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